辯天堂「寳珠殿」
「寳珠殿」と名付けられた辯天堂は、過去帳の記録から文化元年(1804年)12月に再建されたものです。
村内の横山七郎左衛門という宮大工が、釘を一切使用しない「一本くさび工法」により建立したとされ、周囲の環境に調和した平塚市内随一の辯天堂として知られています。拝殿は平成30年に寄進されました。
八臂宇賀辯財天
八臂宇賀辯財天 ご真言 オン ソラソバテイエイ ソワカ
「何事も願いを叶えて下さる」といわれる妙圓寺の辯財天様は、8本の手にそれぞれ威徳を表す宝珠や宝刀を持ち、頭上に人頭白蛇の「宇賀神」をいただき、面相はふくよかで微笑みをたたえ、常に「大黒天」と「毘沙門天」を従え、回りを取り囲む十五童子は人々の願いを具現し成就する使者として辯財天にお仕えするお姿を表現しています。胎内の墨書札には「此尊天始ハ不知中興ハ小田原左内ト聞。其次ニハ江戸池端ニテ仏師黒田高山仕之者也。其ノ後宝暦ノ頃法印祐俊再興也。次文化二丑五月本尊等再興豊純代」とあります。
古代インドでは、インダス河の支流「サラスバティ」の河岸に立って歌を唄うと美声になると信じられており、遂にこの河が神格化され弁舌・音楽・智恵の神として崇められたのが辯財天信仰の起源であると言われています。その後、お釈迦様が仏教を説かれ、それ以前のインドの信仰や習俗も仏教に帰入されますが、辯財天信仰は現世利益の大きい信仰としてさらに盛んになっていきました。護国三部経の一つとされる「金光明経(金光明最勝王経)」の中心に辯財天が据えられ、「仏の教えを説き仏の道を守り実行する人々を守護し智恵弁才を増進させよう」と誓われたとあります。
わが国では、仏教伝来直後の奈良・平安の時代には、既に辯財天が篤く信仰を集めるようになり、伝教大師最澄上人の比叡山開創にあたっても、辯財天が現れ大きな力をかしたと伝えています。